Thursday, July 3, 2014

【Race Report】第29回サロマ湖100kmウルトラマラソン後編

 <*前編はこちら>


 サロマのレースやコース自体の詳細については他の方もたくさん書かれているのでここであえて細かくは書きません。100キロを走りながら自分の頭の中に浮かんできた言葉や思いを今日は書いていこうと思います。   今年のサロマは例年以上の暑さ(最高気温28.9℃)、そして所々強風の向かい風が立ちはだかる厳しいレースでした。それは一般男子の完走率53.2%、一般女子の完走率56.7%、陸連登録男女を入れての完走率も56.5%という数字からもいかに厳しい戦いだったかがわかると思います。100キロというちょっとどうかと思うくらいの距離に挑戦するランナーのほとんどは何があっても前に進む意思と力を持つ変態勇者たちです。それでも約半分が脱落する。それが今年のサロマでした。


 最初に心に浮かんだ言葉は、「諦めるか諦めないかは完全に選択の世界」であるということ。今回、自分の中で2回ほどずどんと落ちるところがありました。40~50キロと、70~80キロのあたり。最初の落ち込みは完全に精神的なもので、なぜか辛い辛いという気持ちと、まだ半分以上も残っているのか・・・、というネガティブな思いがそれくらいの時にどんどん出てきました。タイムも当たり前のように遅くなっていき、足がなかなか前に進まなくなりました。足的には十分まだ残っていたので、55キロのレストステーションでシャツや靴下も変えられるし、買っておいたリポDやクリームパンも食べられる。少しくらい日蔭で休憩したっていいじゃないか、と自分をなだめすかして何とか最初の落ち込みを乗り切りました。
 レストステーションを過ぎたあたりからは徐々に背後から迫ってくる関門時間との闘いという要素も加わり、キツさは増すばかりだったのですが、その関門時間があったからこそ残り40キロか・・・ではなく、次の10キロの関門時間まで1時間40分か、とりあえずそこまで行って考えよう、というように細かく目標を区切ることができたので逆に良かったのではと思っています。




 これは個人的なコツなのですが、いつから音楽を聴くか、というのも完走のためには大きなポイントだったと思います。音楽は僕にとっては気持ちが落ちた時に使うブースターの役目となっています。レース前の計画では55キロのレストステーションから音楽を投入しようかと思っていたんですがそれ以外の作業が多すぎてすっかり忘れて出てきてしまったので。実際に音楽を聴き始めたのはその次の給水所からでした。
 ちなみにUTMFから使っているのはSONY ウォークマン NW-S785K。これ、最大で77時間連続再生ができ、軽量ですので100キロや100マイルという長丁場のレースでは重宝しています。
 閑話休題。サロマの森の音やヒグラシみたいなセミの鳴き声、波の音など自然音も好きだったのですが、疲れてくると自然音だけでは辛くなってきます。もちろん最初から最後まで精神的に落ちなければ音楽は必要ないとは思います。また最初から聞く必要は(少なくとも僕には)なく、後半もう限界まできた時にこそ効果を発揮するものだと思います。それも案外ベタなJ-Popとかのほうが耳障りがいいというのは何ででしょうか?(笑)

 サロマは確かにコースは平坦だけど初心者にとっては関門が意外に、というかかなり厳しいなというのが正直な感想。イメージしていたのんびりと風景を楽しんで走れるポイントっは前半以外ほとんどなかったと記憶しています。もちろん眼前にいきなり広がるサロマ湖の雄大な風景やワッカ原生林を目の前にした時のあの景色はこのレースでしか味わえない醍醐味ではありましたが、特に後半のワッカは風景を楽しむ余裕は正直ほとんどなかったです(笑)。

 「体の痛みを受け止めそれを認めると、向こうもそれ以上の暴挙には出ない。」

 70~80キロからワッカ原生林の前半部分は今回のレースで最も辛かった区間になります。関門時間もすぐ後ろに迫ってきていて休めないのに、足の痛みも気を抜くと耐えられなくなるほどにひどくなってきていました。その時に何度も繰り返したのが上の言葉でした。
痛いという事実を無視できないのであれば、下手に籠城して反撃のチャンスを狙うのではなく、あっさりと白旗をあげて無血開城したほうが、痛みもそれ以上に暴れることはなくなります。無理に頑張って痛みに対抗しない。これは僕が何回かの50マイル(80キロ)、100キロレースで学んだことです。これも要は痛みへの考え方を変化させたというだけのことなのですが、痛くなったことについてはもうあきらめて、逆に痛みを楽しむことが、痛みとうまく付き合う方法なんじゃないかと思います。波が満ち引きするように、間隔をあけて痛みがやって来るたびに、「この痛みを楽しみにここまで来たんだろ!」とドMなのかドSなのかよくわからない発言を頭の中でリフレインしていました。





 それと同じくらい効いたのが、「辛い時こそ笑え。」でした。気持ちが折れそうになる度に強制的に笑顔をつくりだすと、不思議とさっきまでの辛さが消えていきます。ただこれは周りから見られると相当あやしいので、私は人が見ていない時にこっそりやっていました(笑)。

 ワッカのあの延々と続く一本道はまさにドラゴンボールの蛇の道か!と思うほどに長くつらい15キロでした。その頃になると関門との闘いがむしろ走るモチベーションになっていて、関門が近づいてくればくるほど闘志を燃やして走っていました。

 ワッカに入ってからだましだまし走っていた足、特に右足の甲の痛みをかばっていた左足が完全にいかれてしまい、止まってしまうとまともに前に進めなくなってしまいました。歩くとひどいもんでしたが、走るには何とかまっすぐ走れるという状態だったので、もう残り10キロちょい全部走り切ってやろうと、ギアを入れなおしました。90キロの関門を超えてゴールの関門まで残り90分。歩き始めるとおそらく間に合わないという中、一気にアドレナリンが放出され、そこからは今までキロ7分とか8分まで落ちていたペースが最大キロ5分ちょいという、まさに爆走、無双状態な走りとなり、結果今日一番の走りができました。不思議なものでその間、痛みは一切なし。最後の10キロで多分200人くらいのランナーを抜いたと思います。

 残り3キロ、2キロとゴールが近づいてきて、残り1キロのサインを見た時にはさすがに速度も落ち込んではいたんですが、それでも全身汗だくで必死に走っている姿は、きっと誰が見てもなんでここまできてこんなに必死になってんだこいつは?と見られたのでは思います。「実は止まってしまうともう一歩も動けないんですよ(涙)!」と心の中で叫びながら走っていくと、一気に道が広がりました。フィニッシュラインが気が付けばすぐそこにありました。今でもあのゴール近くの多くの人たちの声援のすごさは耳に残っています。後半からはずっと音楽を聴いていて、ゴールまで残り500メートルのあたりでイヤホンを取った瞬間のあの大声援。一人で走っていたつもりだけど、一人じゃなかったんだと思わずにはいられなかった瞬間でした。

 私の初サロマはその大声援に包まれるうちに終わっていました。100キロの通過時間は速報で12時間38分53秒。ゴールした瞬間は自然にガッツポーズを取っていました。




 ゴールした後、夕方の北見市登呂スポーツセンターの階段で一人カレーをつつきながらビールを飲んでいた時に思い浮かんきた風景はなぜかサロマの大自然ではなく、すれ違い、抜きつ抜かれつしたランナー達1人1人の姿でした。特にゴール前最後の関門である90キロ関門の前後では速いランナーの方では決して見ることができない壮絶な物語がたくさん起こっていました。時間的にそこから折り返し地点まで行って90キロの関門に向かうのはかなり厳しいと私から見てもわかるランナーが誰ひとりとして諦めず、前だけを向いていたのが強く目に焼き付いています。諦めるというのはとても簡単なように思うけど、90キロ近くまで多くの苦労と苦痛を乗り越えてここまでたどり着いた全員にとってそれはありえない選択肢でした。時間的にどんなに関門突破が厳しくても、足がもうこれ以上前に進めないほどになっていても、目だけは誰も諦めていませんでした。自分も必死にゴールを目指していたんだけど、諦めないみんなの姿を次々目にして思わず泣きそうになりました。そして思った。人間はどうしてこんなにも強く、美しいのか、と。

 数多くのドラマをこの目で見てきたけど、特に印象に残っている方が何人かいます。一人目は女性ランナーの方で、90キロ関門制限まであと10分くらいのところでまだそのランナーは86キロ近く。そこからは恐らくどれだけ頑張っても90キロの関門には間に合わないということは誰に言われなくても本人が一番よく分かっていて、でもその事実を受け止めることは彼女にとってとても厳しいことだったのでしょう。僕が彼女に気付いたのは彼女とすれ違う50メートルくらい前から。ワッカの一本道は遠くまでよく見通せるんだけど、そこで彼女が一瞬立ち止まり、シャツで顔を覆い堰を切ったように泣き始めたのが遠くからでもわかった。僕がちょうどすれ違う時、彼女は一通りたまっていた感情を出し切ったという感じで再びまた前をしっかりと見据えて走り出した。
 彼女のそのすぐ後ろにもフラフラになって道にしゃがみこみ、地面に倒れこみながらも、すぐに立ち上がって前に向かって進んでいく若い男性ランナーがいた。最後の力を全て出し切るように信じられない速度でダッシュしている人もいた。みんなどうしてそうまでして前に進みたかったのだろう。どうして100キロを走りぬきたいんだろう。多分誰もその答えを明確に述べることはできないんじゃないかな。僕だってそう。ただ一つ。自分がどこまでやれるか見てみたい。その答えだけでも十分なのかもしれない。



 今更僕が言うことでもないけど、長距離走はつまるところ、ある程度のところからは心、精神力が全てだと思う。やめようと思えばいつでもやめられるし、絶対ゴールしてやると思えば必ず辿り着ける。もちろんそれが通用するのは筋肉痛だったり、精神力でおさえられる疲れや痛みだったらの話。骨折やら捻挫など、気合いでどうこうできるものでない時は諦めるしか無い(それでも骨折したまま、また捻挫したまま100マイルを完走したランナーがこれもまた数多くいるのがこのスポーツの不思議なところ)。

 僕にとっての2大DNFレースであるキャノンボールUTMFを比較すると、キャノンボールは完全に前者。あそこでやめなくてもよかった。でも完全に心が折れてしまっていてリカバリーがきかなかった。ようは根性がなかったってこと。UTMFの時は心と身体のダメージが半分半分。後先考えなければ腫れあがった右足首をもっていかれても、せめて関門時間まで這ってでも進めることはできたかもしれない。でもあの時はそうはできなかった。痛みにも今回のサロマのようにコントロールできる痛みとそうでない痛みがあり、UTMFの捻挫の痛みは僕のへなちょこな精神力ではカバーできるものではなかった。

 UTMFの80.5km地点にあるA7富士山こどもの国。僕のUTMFの初挑戦はそこで終わりを迎えた。今でも覚えているのは、こっちはとことんまで落ち込んでいるのに、上を見るとそこには気持ちいいくらいに晴れ上がった空があり、さっきまでの鬼気迫る状況が嘘みたいにのどかな時間が流れていた。そして関門時間ぎりぎりで駆け込んでくる多くのランナー達の姿。必死な形相で駆け抜けていく勇者たちを横目に、僕は人目を避けるように駐車場の車の陰に座り込んでいた。あの時からずっと心の中でモヤがかかっていた。レースに負けた事実よりも、自分自身の心に勝てなかった事実に対して悔しいやら、自分で自分の限界を設定してしまったことへの怒りやらが混じり合った感情に囚われていた。何をしても誰とあってもずっと気持ちが晴れない毎日。今回のサロマでもし途中でリタイアしていたら僕は本当に走るのをやめていたかもしれない。少なくとも42.195kmを超える距離を走ることは。

 今回も最高気温が30℃に迫る暑さの中、膝や右足の甲の部分の痛みが炸裂したけど、「ここでやめるためにわざわざ北海道に来た訳じゃないだろ。」と、また適当な、皆が聞いても納得できるような理由をつけてレースをやめるのかお前は、そうじゃないだろ。」と何度も頭の中で繰り返した。今回ばかりは絶対に諦めるわけにはいかなかった。


「痛みは避けられないけど、苦しみは選択できる-“Pain is inevitable, suffering is optional”」、つまりはそういうことなんだろう。


 最後に私の好きな言葉をもう一つ、ワシントンD.C.にいた時に参加していたランニングチームのチームシャツの背中面に書いてある言葉。

「Running is a spiritual sport and we are all insane!(意訳:ランニングというのは精神力のスポーツで、辛くても走り続ける私たちってきっと全員どっか頭がおかしい!)」

 来年もまた走りたいかって?それは来年の今頃、わかっていることでしょう(笑)。

 最後に、給水所やコースのいたるところでかぶり水や応援で助けてくれたボランティア、地元の中高生の皆さん、本当にありがとうございました!

 

Tuesday, July 1, 2014

【Race Report】第29回サロマ湖100kmウルトラマラソン前編


「あなたは100キロを一日のうちに走り通したことがあるだろうか?世間の圧倒的多数の人は(あるいは正気を保っている人は、というべきか)、おそらくそのような経験をお持ちにならないはずだ。普通の健常な市民はまずそんな無謀なことはやらない。僕は一度だけある。」
―「もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった」『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹―

 この書き出しではじまるエッセイは村上春樹がウルトラマラソンについて語った唯一のエッセイだ。恐らくサロマ湖100kmウルトラマラソンを走る多くの人が一度は読んだことがあるのではないだろうか。僕もその一人だ。最初にこのエッセイを読んだのはジョギングをはじめたばかりの頃。自分がまさか本当に100キロ走ること(くらい変態になる)になるとはその時には想像だにしていなかった。

 村上春樹がサロマを走ったのは1996年のこと。その頃はまだ今よりももう少し牧歌的な雰囲気が残っていたようで、国道も車はほとんど走らず、牛とサロマ湖と、頭上に広がる大空、そして少しの風だけが物好きなウルトラランナーを迎えてくれていたようだ。今年もそういった牧歌的な雰囲気を夢見ていたのだけれども、当たり前のように1996年の頃より約4倍近く増えたランナー、そしてそのランナー達をサポートするクルー達によって、物理的に大会関係車以外の車が入れないワッカ以外、常に多くのサポート車に抜きつ抜かれつのレースとなった。今回1人で参加した自分としては公式エイド以外で頻繁に冷たいコーラやアイシングやマッサージや食事のサービスを受けるランナーたちが正直羨ましくてしかたなかった。また、トレイルランレースだと100キロの距離だと途中くらいからほぼ一人の世界になるんだけど、今回は最初から最後までずっと多くのランナー(人は変わっていくけど)に囲まれて走ることになってこれも新鮮だった。

 サロマは日本に帰ってきたら一度は走りたかったレースだった。帰国後、キャノンボールUTMFと日本のトレイルランニングレースにことごとく打ち負かされてきた自分にとって実は今回のレースは今後の自分を決める重要な大会でもあったわけです。もし今回またDNF(Did not finish=リタイア)してしまったら本気でしばらく走るのをやめようと思っていました。もともと子どもの頃から走るのが苦手で、走っても足が速いわけでもなく、むしろ中学校のマラソン大会では後ろから数えたほうがはやかったくらいの鈍足ランナーだったのですが、そんな自分でも大人になって走る楽しみを駐在させていただいた先の米国で覚え、それなりの経験を築いてきたと自負していました。そんな自分の僅かばかしの自負を日本のトレイルはあっさりと打ち砕いてくれました。まさに自信喪失。リタイアすることそれ自体よりも怖かったのが、「ゴールしないこと」に慣れてしまうことだった。とりあえずレースには出て、心が折れたらそこでやめればいいやということになってしまえば、ウルトラやトレイルランの大会に出ること自体、自分にとってほとんど意味をなさないことになってしまう。フルマラソンをいくつ完走しても全くその不安は払拭できなかった。これはそういう話じゃない。42.195キロを越えた世界で白黒つけないといけない話だった。僕は何とか自分が陥りかけていた負の連鎖から今回どうしても抜け出したかった。

 誰にもそんなことは言わなかったけど、そんな色んな思いと共に北海道まで100キロを走りにいったわけでした。前日夕方に現地入りする最短コースのツアーに申し込んだ僕は、土曜日の夕方に女満別空港に到着し、同じツアーに参加した他のランナーの人たちとバスに揺られ徐々に赤く夕日に染まっていく北海道の丘陵地帯を横目にホテルに向かった。便利になった時代の代償か、女満別に降り立った時もどうもまだ自分が北海道にいるという事実にピンとこない。羽田空港から2時間弱で到着してしまえるのだから無理もない話かもしれない。どうみても東京ではない北海道な風景を目の前にした現実をまだ受け止められず、バスに酔っているのか、頭が酔っているのかわからないうちにバスはホテルに到着していた。




 夜は近くのスーパーだけに行き、そこで東京から持ってくるのを忘れていたエアーサロンパス(これが後でかなり助けてくれることになる)と2日分のホテルでの食事、そしてレース中の補給物としてクリームパンやリポビタンDなどを買う。買い物袋は1枚3円だった。  部屋に戻るとカーボローディングとばかりに、カツカレーやお寿司など、普段は体重が増えるのを恐れて食べるのを控えていたものばかりをここぞとばかり食す。もしかしたらこの瞬間のために走っているのかもと思えるくらい幸せな瞬間。



 ホテルはゴール地点の北見市にあるため、出発地点に向かうバスに乗るためには1時30分には起きていないといけない。もはや早起きのレベルを超越してただの夜中である。しかし本当に寝ないでいると後で辛くなるのは眼に見えているのでできるだけの用意はしておいて起きてレースウェア着ればすぐに出れるようにして10時前にはベッドについた。



 寝たのか寝てないのか、もしくはその境目にいたのかよく分からないうちにモーニングコールがけたたましく鳴り響き、1時半がやってきた。ホテルでは1時から朝食を用意してくれていて、フロントまでおにぎり弁当を受け取りに行き、ワールドカップ決勝トーナメント、ブラジル対チリをボーッと見ながら単なる夜食といっても過言ではない時間に朝食をいただく。

 2時半の集合時間ちょっと前に行くとすでに1台目のバスは満員のため出発済み。みんなどんだけ早いんだよ・・・と思いながら同じように取り残された数名のランナーの皆さまと、こんな僕達のためにちゃんと用意されていた他のホテル経由で来る2台目のバスを待ち、スタート地点の湧別町に向かう。驚いたのが北海道の夜明けの早さ。まだ2時半過ぎなのにすでにうっすらと夜が明け始めている。緯度の関係かな?などと思っているうちにバスの中でいつの間にか寝てしまい、目が覚めると完全に朝になっていた。そこはスタート地点の湧別総合体育館。レース直前にも関わらずいまだ精神は高ぶらず。おそらくまだ自分で自分のことを疑いにかかっていて、変に調子に乗って後で痛い目を見ることが怖かったからだと思う。



 スタート地点には↑のような記念碑もあり、このレースが単なるレースではなく、町を形作るひとつの要素になっていることにあらためて気づかされた。朝4時だというのにすでに真昼間のような熱気。10回完走するともらえる青い称号、サロマンブルーのbibを付けている方々もそこかしこにおり、どことなく風格さえ感じられた。いつか自分のあの栄光の青色ゼッケンをつける日が来るのだろうか。



 サロマの面白いところは公式サイトなどには一切書かれていないんですが 30km、65km、80kmの3箇所にスペシャルドリンクが置けること。後、55kmのレストステーションにドロップバックが置けること(これは書かれてあった)。スペシャルドリンクと言っても何を置くべきかピンとこなかったのでとりあえず、経口補水液 オーエスワン(OS-1)にオレンジジュースとハチミツにレモン汁を混ぜた物にしてみた。どれもこれも多分脱水症状に近い身体にはいいだろうというものの詰合せ。これ、飲んでみると分かるのですが正直美味しいとは言い難い微妙な味です(笑)。でも自分にはそれなりに効果はあったと思います。オレンジジュースの割合を増やせばもっと口当たりがよくなったかもしれません。またせっかく置いておけるのだから、とジェルやアミノバイタル VESPA HYPER ベスパハイパーをガムテープでくくりつけることにしました。これは必要最小限で走れるのでオススメです。さらに4000本のスペシャルドリンクから選び出さないといけないということで目立つように子どもの写真などを貼りつけました(分かりやすくてこれはこれで良かったのですが反面捨てるにしのびなく、次回からは写真はやめようと思いました(笑))。



 準備が全て終わりトイレも済ませてスタートラインへ。空は雲ひとつないくらいの晴天。村上春樹のエッセイでは朝は冷えて手袋も欠かせないとあったが少なくとも今年は最初から真夏仕様のウェアリングで全く問題ないくらいの気温の高さ。つまり今日はこれから気温は上がることはあっても下がることはない真夏のレースになるということを意味していた。アナウンスでは「今日の最高気温は25℃です。」と言っていたのでまだ少し安心はしたのだけど、蓋をあけてみれば最高気温は29℃と、ここ数年のサロマでも最もコンディション的に厳しいものになったようだ。でもそれは何回も参加している人の話で、そもそも今回が初サロマの自分にとってはそういうものか、と割り切るしかできなかった。周りの喧騒、興奮をよそに、まだどうもレースに向けて盛り上がりに欠けて盛り上がれず一人スタート地点に佇んでいた。これがフルマラソなどの距離のレースなら致命的だったかもしれないけど、100キロ13時間という長丁場のレースであればそれくらいが丁度良かったのかもしれない。これも後になって分かる話だけど、最も自分の中で盛り上がったのは80キロを過ぎたあたりから。どんだけエンジンかかるの遅いんだよ、という話になりますが、今振り返って気づいたことがあります。キャノンボールやUTMFでリタイアしたのはちょうど80キロに行くかいかないかの距離。どうやら自分の中でのスイッチが入る距離は人よりも少し?遅い80キロらしい。今までのDNFはそのスイッチが入る直前に走るのを止めたことになる。辛くてもそこを超えれば何とかなる。このことに気付けただけでも遠く北海道まで来たかいがあったのではないかと思っています。実際は100キロの中では何度もアップダウンの波に襲われるのですがそれをどう自分なりに乗り越えたかは後編で書きます。って全然大したことではないですが(笑)。



そして5時ちょうどにレースが始まった。辛くて長くて暑く、そして今までとこれからの自分とじっくり向き合うことができた長い長い1日の始まり。
それがもう二度と来ることのないたった一度の2014年6月29日の始まりだった。(後編に続く)